Day: 12月 6, 2021

苦渋の決断を下すヨセフ

聖書のみことば: マタイ1:18-25

「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れた…」(マタイ1:24)

婚約者マリアが「聖霊により妊娠した」と聞かされたヨセフの心中は、決して穏やかではなかったでしょう。驚き、困惑、怒り、不安、悲しみなど、様々な感情の嵐が心に吹き荒れたことでしょう。それでも、マリアが姦淫の罪で石打ちにされるのを避けるために、ヨセフは、自分の立場や評判を犠牲にしてでも、彼女を密かに離縁すると決めました。誰かに相談することもできず、一人で悩み抜いた末の苦渋の決断だったことでしょう。

ところが、彼の夢の中に主の使いが現れ、「恐れずにマリアを妻として迎えよ」と告げられます。ヨセフは納得できたでしょうか。心に渦巻いた様々な感情を、きれいさっぱりと拭い去ることができたでしょうか。そうではなかったのでは、と私は想像します。100パーセント納得できないけれど、困惑や、ブルーな気持ちが無いわけではないけれど、それでも神の言葉に従ってみようと決意して、行動したのではないでしょうか。

ブルーな気持ちのままでも大丈夫

そんなヨセフの心情をおもんぱかると、世界で最初のクリスマスは「ブルークリスマス」だったかもしれないと思います。ですから、あなたの抱えるブルーな思いも無理に打ち消さなくてよいのです。神は、ヨセフと共にいてくださったように、あなたとも共にいてくださり、言葉にできない複雑な思いを抱えながらも神に従う者を喜んでくださいます。神のご計画は、そのような人々を通して成しとげられていくのです。

考えよう
拭い去れない悲しみや怒り、不信感がありますか。そのままの自分で神と共に歩むことは、あなたにとって何を意味しますか。

祈ろう
神よ、あなたは肉体だけでなく感情も造られたお方です。否定的な感情があっても、ありままの自分で主の御前に出ることが許されていると納得できるよう助けてください。

罪悪感にさいなまれる不倫女性

聖書のみことば: ヨハネ8:1-11

「女とともに、イエスだけが残された」(ヨハネ8:9)

ある女性が不倫現場で捕らえられ、イエスの元に連れてこられました。告発者たちが「律法によれば石打ちで処刑しなければなりませんが」と迫ったとき、イエスは一言「罪がない者から石を投げよ」と語りました。それを聞いた告発者たちは一人、また一人と去って行きました。

告発者や野次馬たちが立ち去りイエスと彼女だけになるまでに、どれほどの時間がかかったのかはわかりません。その間彼女は、石や罵声がいつ飛んでくるかという恐れ、不倫現場を目撃されてしまった恥、何より「罪を犯してしまった」という罪悪感から、座り込んだまま動けなかったでしょう。顔を上げることもできなかったのではないかと思います。一方、イエスは恥と罪悪感に苦しむ彼女を直視することもせず、「身をかがめて、地面に何かを書き」ながら、まさに適当な距離感で寄りそっておられました。そして彼女の心が開くのを待って「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。もう決して罪を犯してはならない」とみことばをかけられました。

あなたの隣に座り込んで待つイエス

クリスマスに私たちと同じ人間としてお生まれになったイエス・キリストは、傷んだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともないお方です(イザヤ42:3)。罪を見過ごすことはなさいません。しかしそうせざるを得なかった弱さに共感してくださいます。私たちが罪悪感や悲しみで打ちひしがれ座り込んでしまうとき、イエスの方から私たちの苦しみのただ中に降りて来てくださいます。そして私たちがみことばを聴いて立ち上がれるまで、隣に座っていてくださいます。それがどれほど長い時間であろうとも。

その名はインマヌエルと呼ばれる。訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(マタイ1:23)

考えよう
拭い去れない罪悪感や失敗を抱えていませんか。またそのような人とどんな距離感で接していますか。

祈ろう
罪を犯してしまい痛みに打ちひしがれるとき、あなたが待っていてくださることを思い出させてください。また、心痛める友にあなたのように寄りそう者と変えてください。

仲間を必要としたマリア

聖書のみことば: ルカ1:39-56

「マリアは三か月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った」(ルカ1:56)

私の「信仰の友」の一人は50歳も年上ですが、年の差を気にせずお互い心の内を分かち合うことができる関係です。絶望と孤独にさいなまれていた頃、私は彼女に「神がいるかどうかなんて、もうわからない。いたとしても、私のことなど気にもしていない。もう信じられない」と、思いの丈を打ち明けました。彼女は黙ってその嘆きを最後まで聞くと、意外な言葉をかけてくれました。

「いいのよ、それで。だって私が代わりに信じているから。私が信じられなくなったときは、あなたが代わりに信じていてね。」

キリストの救いは個人の体験であると同時に、それを越えるものです。信仰は私のものというだけでなく、「私たち」のものなのです。私はその時、共に信じる仲間がいることの幸いをずっしりと感じました。

支え合う仲間を与えてくださる神

神は、御告げを受けたマリアに、エリサベツという信仰の友を与えてくださいました。年は離れていましたが、二人とも神の不思議な御告げを受けて身ごもっていました。「あれは本当に神からのメッセージだったのかしら?」「赤ちゃんは無事に生まれるかしら?」それぞれに疑ったり、不安に襲われたりすることがあったでしょう。マタニティーブルーを経験したかもしれません。一緒に暮らした3ヶ月間、2人は「かわりばんこ」に信じて支え合ったのではないでしょうか。

マリアの夫となったヨセフも共に信じる仲間でした。子どもが生まれてからも夫婦それぞれ「これは本当に神さまの子だろうか」とか「無学な自分たちが、神の子を育てられるのか」と不信や不安に襲われ、落ち込むこともあったでしょう。そんなとき、二人は代わるがわるにお互いの信仰を支え合ったのでは、と想像します。

あなたにも共に信じる仲間が与えられています。もし「私にはそんな人はいない、ひとりぼっちだ」と感じる人がいるなら、どうか覚えていてください。今この時、これを書いている私がその一人です。

考えよう
今のあなたは、代わりに信じてもらう番ですか。それとも誰かのために信じる番ですか。

祈ろう
主よ、あなたが仲間をくださっていることを信じます。その面々を私に示してください。そして立ち直ったなら、仲間を力づける者にしてください(ルカ22:32)。

ためらいを感じる宿屋

聖書のみことば: ルカ2:1-7

「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(ルカ2:7)

コロナ禍で里帰り出産ができず、近親者のサポートなしで子どもを産まなければならない女性が増えているというニュースがありました。地域のサポートが求められています。

臨月のマリアは夫ヨセフの本籍地ベツレヘムに旅立ちました。その地で出産の日を迎え、本来なら受けられるはずだった家族のサポートがありませんでした。この夫婦に家畜小屋を提供した人物が誰なのかはわかりませんが、出産間近の妊婦の抜き差しならぬ状況を目前に、もっと適切な場所を提供したかったことでしょう。私はきっとそうだったと思います。しかし「場所がなかった」のです。

あ、家畜小屋がある。人目は無く、雨露はしのげる。この夫婦を追い出すことはできない。ああ、でも、あんな所で出産なんて……。宿の主人の心中は複雑だったことでしょう。しかし、悩みつつ決断した彼の善意が、救い主の誕生を可能にしたのです。

神は私たちの精一杯を用いてくださる

私たちも神のために、隣人のために、一番良いもの、そしてベストな自分をささげたいと願います。けれども、病気や弱さ、過去の傷のために、満足な奉仕がささげられないことがあります。意欲はあっても状況が整わず、十分に動けないことがあります。いや、そんなときばかりかもしれません。自分の差し出すものがあまりにも粗末で貧相なので、ささげること自体をちゅうちょして、伸ばした手を引っ込めたくなります。そして、そんな自分を情けなく、恥ずかしく思います。

しかし、家畜小屋で誕生されたイエスは、その葛藤を知っておられます。そして、みすぼらしくても、世間の考える最善からはほど遠かったとしても、私たちのささげる「最善」を受け取ってくださり、みこころを成すために思いもよらぬ形で用いてくださいます。名も残らぬ人が、ためらいつつも提供した家畜小屋で、世界の希望が生まれたのですから。

考えよう
あなたが神のために、隣人のためにささげたいけれども、ちゅうちょして、引っ込めてしまっていることは何ですか。

祈ろう
今まで、私のできることは十分ではないからとちゅうちょしていましたが、神と人とを愛するために     (あなたの言葉を入れてください)をささげます。あなたがそれを受け取り、みこころのために用いてくださると信じさせてください。

疎外感を抱える羊飼い

聖書のみことば: ルカ2:8-20

「羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。」(ルカ2:8)

うつの渦の中にいた頃、 私は強い疎外感を抱いていました。みんなは幸せそうだけれど、私は違う。みんなは楽しそうだけれど、私は苦しいだけ。人前では何とか自分を保っていましたが、明るい自分を演じれば演じるほど、心に惨めさが募っていく、そんな状況でした。もちろん、神がみんなを愛しておられることは知っていました。ただ、自分はその「みんな」に入っていないような気分でした。もがいてもあがいても振り払えない悲しみと孤独が、私にまとわり付いていました。

新約聖書時代のユダヤ人社会では、羊飼いは軽蔑されていました。皇帝の言う「全世界」に含まれず「住民」として数えられませんでした。宗教的にも疎外され、差別されていました。「全世界の住民登録」の勅令に従って先祖の町に帰郷していく人々を傍目に、いつも通り仕事をする羊飼いたちは胸中何を感じていたでしょうか。ところが、神はその彼らを心に留めておられました。見捨ても忘れもせず、それどころか、救い主の生誕に関わらせてくださったのです。そして彼らの喜びの証言が、聖書に収められました。

私の代わりに疎外されたイエス

あなたは今、大切なもの、大切なことから切り離されてしまったと感じていますか。もしそうなら、思い出してください。神は、あなたの憂いに目を留めて、救い主という大きな贈り物を与えてくださいました。イエスは降誕され、30年余りの悲しみの人生を過ごされた後、十字架上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。神の御子が人となり、あなたや私の代わりに疎外されました。そして、キリストを信じる私たちを、御国の完成という壮大なドラマに関わらせてくださったのです。

考えよう
どんなときに最も疎外感を感じますか。そのときどのように反応しますか。

祈ろう
イエス様、私の代わりに疎外を引き受けてくださった事を信じます。今度はあなたと共に、御国の完成のために歩み出させてください。

クリスマスに贈る5つのデボーション ー 5日目

マリアとヨセフに家畜小屋を提供した宿の主人は、もっとふさわしい場所を提供したいけれどできないことに複雑な心境だったかもしれません。しかし、その善意を神はご存じです。

喜んで与える人

紀元3世紀に生まれたニコラスは、後世、自分がサンタクロースと称されるとは思わなかったでしょう。彼は、ただ神を愛し、純粋に人に心を配り、喜んで施したり、善い行いをしたりする人でした。ある家庭の窮状を知り、夜、金を入れた袋をその家の窓から投げ込みました。すると、袋は、暖炉のそばの靴(もしくは靴下)の中に入った、という話です。